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戦国武将って間違ったイメージ持たれ杉だよな

戦国武将って間違ったイメージ持たれ杉だよな
1:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 18:40:12.32 ID:nk80GgFl0
特に直江(愛)のほうとか酷い
戦国武将って間違ったイメージ持たれ杉だよな
引用元:戦国武将って間違ったイメージ持たれ杉だよな
http://hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1383730812/


1:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 18:40:12.32 ID:nk80GgFl0


特に直江(愛)のほうとか酷い



2:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 18:41:40.52 ID:1h1kA3j6i


前田慶次()

3:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 18:42:22.40 ID:nk80GgFl0


>>2
関ヶ原の時には50とかそれに近い年齢なんだっけ




4:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 18:45:03.95 ID:PzRxVo9Pi


それよりも本能寺の変のイメージだな
信長討たれて大変だ!
光秀が秀吉が!

ってなってるけど
信長はもう結構年だし家督は信忠に譲ってるし
実際は信忠が死んだ事が一番大きいんだよな

14:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 18:51:01.83 ID:qcE7lJbx0


>>4
家督を譲ったのは後の家康と一緒で
世襲制をより強固にするため
あとは尾張を信忠に任せることで自分はより天下人として自由に動けるようにした




6:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 18:46:38.00 ID:bbLpUmDk0


信忠さえ死ななきゃ秀吉の天下なんて無かったんじゃないかと思うね
実際逃げようと思えば逃げれたろアイツ

7:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 18:47:53.75 ID:hkTBshws0


>>6
どこへ?


46:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 19:18:07.21 ID:vsstYPxR0


>>7
進言にしたがって二条城になんか籠もらなければ安土城まで逃げることは出来た


91:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 20:24:21.54 ID:xKEF8+4Z0


>>46
有楽斎とかが逃げれたのは結果論だし、だいいち信忠と有楽斎じゃ光秀のターゲットとしての価値が違いすぎる
それに進言もなにも、どこに光秀の兵がいるのかも分からないのにわずかな手勢でどうやって逃げるんだ

信忠のたどった道順としては

すぐ近くの本能寺で親父がやられた
→逃げるにもすぐそこに光秀の軍がいるし、現状どこに敵がいるか分からない
→とりあえず二条城に味方の軍いるらしいから合流するわ
→味方いなくてオワタ
→二条城がもう包囲されたし耐えれるだけ耐えるわ
→無理だったわ

って感じらしいで
信忠は当時得られたであろう情報の範囲内ではベターな判断をしてると俺は思う




5:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 18:45:14.76 ID:nk80GgFl0


上杉ら越後勢→義なんてなかった
島津一族→戦闘マシーンぽいがじいさんの教えで戦時にはお歯黒



11:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 18:49:48.88 ID:qcE7lJbx0


物語を否定して
土掘っただけで歴史を語るアホよりはマシ
100年後には戦国無双が史実になるよ



15:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 18:53:36.04 ID:IJ57VxFWO


嫁が本体の戦国武将がいるらしい…

16:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 18:54:39.79 ID:nk80GgFl0


>>15
山内の悪口はそこまでだ


一豊夫妻・内助の功
見性院は、『常山紀談』による嫁入りの持参金またはへそくりで夫・一豊の欲しがった名馬(鏡栗毛)を購入し、主君織田信長の馬揃えの際に信長の目に留まり、それが元で一豊は加増されたといわれる。
馬を買った金は、当時の婚姻の持参金である化粧料ともいわれている。これは妻の私有財産で、離縁の際などに必要とされる経費に使われたりもしたが、見性院はその当時の武士にとって、馬が如何に大事であるかを心得ており、そのために夫に自分の化粧料を使ったのでないかとも思われる]。

他にも、一豊の築城監督の経費を出すために、髪を売ったと言う話もある。しかしこれは、髪を売ったその金額より、夫のために女性にとって大事な髪を売ったことの意味の方が大きい。



22:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 18:59:45.44 ID:PHsIRS5Z0


家康はビビリ武将って解釈でいい?

26:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 19:01:26.39 ID:nk80GgFl0


>>22
ビビりなら天下なんて取れないと思うんだが




23:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 18:59:53.19 ID:Nbt+LNXh0


伊達政宗は馬をハーレーのように乗りこなしてパーリィとか言ったりしないし
本多忠勝はロケットで飛んだりするロボットじゃない



25:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 19:01:13.26 ID:unoKpZGd0


真田は実は兄>>>弟

真田信之


着用していたとされる着物、胴丸等から身長は6尺1寸(約185cm)と推測されている。当時としては非常に長身である。
温厚な人物だったといわれる。しかし、松代に転封された際にはこれに不服を持ち、検地資料などの重要書類を焼き捨てた上で、さらに上田城の植木や燈籠などを全て引き抜き、持ち去ったと言われる。
天正10年(1582年)10月、離反した真田氏征伐の為、北条氏は沼田へと軍を向ける。当時17歳の信幸を大将とし真田軍800は手子丸城救援の為に駆けつけるも、時既に遅く城は陥落、城主・大戸真楽斎とその弟(子とも)・但馬守は自害してしまう。信幸は真田家臣唐沢玄蕃に命じて北条軍前衛を挑発、誘導し伏兵によりこれらを掃討する。真田軍の巧妙な戦術に対応しきれないまま、北条軍は兵力の消耗を恐れ篭城を選択した。正面に比べ警戒の薄い北の丸に着目した信幸は工作部隊を派遣。北の丸より侵入した工作部隊は「裏切者が出た」と叫びながら放火し、不意を突かれた北条軍は同士討ちを行う程の混乱に陥った。信幸はこの機を逃すことなく50人の決死隊を率い、自らも槍を取って突入する。前備の鎌原幸重を失うも正面に展開していた兵100名が挟撃し、ついに手子丸城本丸の奪取に成功した。世に平穏が訪れたのち、かつて手子丸城の守将であり、徳川将軍家旗奉行となっていた富永主膳は自身を打ち負かした信之の采配を絶賛し、昔話として幾度も語ったという。
関ヶ原の戦いにおいて、父弟らによって秀忠が遅参したことや、大坂の陣において弟が幕府軍を苦しめたことから真田家は秀忠に睨まれることが多く、そのために献身的に幕府の公役を務めたといわれる。松代への移封は加増されているとは言え、秀忠の嫌がらせの1つとされている。
松代へ移封した際には20万両という大金を持って入封したが、妻の小松姫と共に倹約家として有名であった。また、九度山へ配流された父弟にも生活が困らぬよう自費で生活援助を行っていた。
前田利益とは懇意の仲であり、織田信長の死も彼から聞かされたという。その時、信幸は大将となって佐久・小県をおさえるため軍勢を率いて進んでいたが、敵か味方かも定かではない真田相手に信長の死を明かした豪放な利益の態度に感心し、軍勢を引き上げた。
明治になって真田家伝来の家康拝領の短刀が入っていると思われていた長持に、石田三成からの書状など真田家にとって不利になる危険な機密書類が納められていた事実が判明した。生前から三成とは懇意の仲で手紙のやり取りが多かった。これらを寝ずの番を付けてまで保管しており、松代移封を不服に思い藩政の重要書類を焼き捨てた信之が、徳川に対する反骨の意味で隠したものだと言われている。
徳川頼宣は信之の事を尊敬しており、自邸に招いては武辺話を熱心に聞いたという。後に信之は頼宣の子の具足親になったとされる逸話が残っている。



27:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 19:01:44.00 ID:7HRMXMwMi


家康は嫡男生きてたらどうなってたんだろうな

33:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 19:05:15.64 ID:GX+R77NI0


>>27
近年信康事件は実際は謀反の露見ってのが濃厚になってきた

生きてたら徳川の天下はなかった可能性大ってことになるかもね


35:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 19:06:26.66 ID:qBUW1gSs0


>>27
あれは信長の命令で殺したってなってるけど実際は家康の独断なんだよな
徳川か天下を取ったせいで信長や秀吉の残虐性が強調されて今に伝わってるんだよな


松平信康の切腹と築山殿の殺害
築山殿は徳川家康の正室で、今川義元の姪であり松平信康の母。
息子、松平信康は信長の娘、徳姫と結婚をするが、徳姫が息子を産まず、それを心配した築山殿が元武田家の家臣で後に徳川家の家臣となっていた浅原昌時の娘で部屋子をしていた女性を、信康の側室に迎えさせた。
元々、徳姫と築山殿は折り合いが悪く、信康とも不仲であった事もあり、徳姫は父・信長に対して12箇条の手紙を書き、使者として信長の元に赴く徳川家の重臣酒井忠次に託す。
内容は、信康と不仲であること、築山殿は武田勝頼と内通したなど。
それにより信長が家康に信康の処刑を命じたとされる。

これは通説で、近年では色々な説が挙げられている。



28:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 19:02:34.31 ID:ldw25T5v0


信長は残忍とか思われてるけど森長可のほうが酷い

森長可


戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。
父の可成と同様に槍術に優れ、その秀でた武勇から、「鬼武蔵」と称された。
高遠城攻めの時は激戦で長可の鎧の下半身は高遠城兵の返り血で真っ赤に染まっており、その姿を見た織田信忠は思わず手負いかどうか尋ねたという。

非常に気性の激しい人物で、他の織田家臣団の奉公人を些細なことで怒りに任せて槍で突き殺したり、同僚に暴言を吐くなどして諍いを起こすことも少なくなかった。
戦でも度々命令違反や軍規違反を犯し、それについての書状もいくらか残されているが、信長から下される処分は口頭や書状での注意に留まり蟄居などの重い処分は一度も受けておらず、信長の重度の寵愛ぶりが窺える。

http://ja.wikipedia.org/wiki/森長可

62:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 19:59:55.82 ID:4Ky/URRx0


>>28
長島とか本願寺とかあるし荒木一族ぶち殺したり長政殺せとか酷いじゃん


63:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 20:01:23.27 ID:nk80GgFl0


>>62
長可の方がさらにひどいって意味だろうに


66:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 20:05:21.45 ID:4Ky/URRx0


>>63
武将と大名じゃ立場が違って比べられないだろ
それに信長もカッとなって人殺す奴だから。へしきり長谷部の例もある


無礼を働いて膳棚下に隠れた茶坊主を机ごとへし切り(振りかぶらずに押すだけで切る。かなり切れ味の鋭い刀でないとこれで人間を斬るのは無理)で成敗したといわれる。長谷部国重の作と本阿彌光徳が鑑定し織田信長から豊臣秀吉に与えられ、秀吉から黒田長政に与えられ、福岡藩主の黒田家に伝来した。国宝。福岡市博物館蔵。



30:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 19:03:26.79 ID:qcE7lJbx0


信長は残忍とかじゃなく宗教勢力に手心を加えなかったからいろいろ言われてるだけだろ



37:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 19:07:31.80 ID:qcE7lJbx0


近代の研究(笑)で歴史をころころ変えるのは止めて欲しい
歴史は勝者が書くモノであって、優秀な作家がそれに色をつけて目立たせるモノだろう。
戦国じゃないけど鎌倉幕府1985年説とかもう珍説のレベル
でもテストで×をつけられると人生が変わる中学生は信じざるを得ないジレンマ

38:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 19:09:42.14 ID:bpxmG9Xw0


>>37
今の中学生は鎌倉幕府が28年前にできたと思ってるのか


43:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 19:12:38.22 ID:GX+R77NI0


>>37
これについては昔の方が結構ひどい
江戸時代に書かれた講談を一次史料扱いして通説の裏付けっていうのがまかり通ってたり…
そりゃそうだろ、その講談から通説が生まれたんだから


45:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 19:15:40.81 ID:qcE7lJbx0


>>43
江戸時代に定説になったものはもう後世では『歴史』なんだよ
信繁は幸村。上杉は義の人。
だから「どうやら研究ではそうらしい」って理由で評価の高い人物を貶めるのは危険。
真実だろうが空想だろうがそれが歴史になっちゃうから




40:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 19:10:26.32 ID:KZFTdt/d0


意外と最近だな



41:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 19:11:33.12 ID:qBUW1gSs0


1185年って言いたかったんだろう あまりイジメたるなよ



44:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 19:14:24.70 ID:nk80GgFl0


三法師とかいう清州会議でだけの一発屋

48:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 19:21:47.74 ID:/DJ/DEIN0


>>44
関ヶ原の時に活躍したやん 民の信頼もあったし
でも出家した後信長のせいで高野山で
嫌われ者になって最終的に追放されてしまうんやで




47:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 19:19:03.93 ID:4Ky/URRx0


三河武士が面倒くさいというイメージ

58:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 19:49:27.48 ID:HzqTYWq+0


>>47
普通に面倒だよな
一向一揆で出奔した武将が居るし
今川への人質が織田にいっちゃったし


81:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 20:19:33.31 ID:utQTcx6i0


>>58
出奔したのが後の本多正信なんだから
家康も懐が深いというか。


本多正信


三河一向一揆が起こると、一揆方の武将として弟と共に家康に敵対した。そして一揆衆が家康によって鎮圧されると、徳川氏を出奔して大和国の松永久秀に仕えた。久秀には重用されたようであるが、やがて久秀のもとを去って諸国を流浪する。

天正10年(1582年)、本能寺の変が起こって信長が横死すると、当時、堺の町を遊覧していた家康は伊賀越えを決意する。このとき、正信も伊賀越えに付き従っていたといわれている(『藩翰譜』。ただし判明している34名の伊賀越えに同行した供廻の中に正信の名はない)。その後、家康が旧武田領を併合すると、奉行に任じられて本領安堵と引き換えに徳川家臣団への参集を呼びかけ武田家臣団の精鋭を取り込み甲斐・信濃の実際の統治を担当した。

慶長6年(1601年)からは、家康が将軍職に就任するために朝廷との交渉で尽力したといわれる。更にこの頃、本願寺では前法主・教如と法主・准如の兄弟が対立していたため、これを利用して、本願寺の分裂を促すことを家康に献策。かつて自らも身を投じていた本願寺の勢力を弱めさせた。慶長8年(1603年)に家康が将軍職に就任して江戸幕府を開設すると、家康の側近として幕政を実際に主導するようになった。慶長10年(1605年)に家康が隠居して大御所となり、秀忠が第2代将軍になると、正信は江戸にある秀忠の顧問的立場として幕政を主導し、慶長12年(1607年)からは秀忠付の年寄(老中)にまでのし上がった。



49:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 19:25:39.63 ID:bbLpUmDk0


お濃の方っていろんなフィクションで信長と一緒に本能寺で死んでるから本当かと思ったら
普通に地味にその後も生きて地味に死んでるのな
最近知ったわ

50:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 19:26:41.56 ID:nk80GgFl0


>>49
つかあの人資料少なすぎ


107:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 20:38:20.32 ID:SLpBQbXw0


>>49
濃さんはいつ死んだとかそこらへんは全く不明だったと記憶してるが
新しい資料でも見つかったのか?


109:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 20:43:21.32 ID:5Api860r0


>>107
信雄だったかな?老後の面倒みてたみたい


濃姫
正確には信長の正室濃姫の最期は不明である。斎藤家の菩提寺常在寺に父道三の肖像を寄進した後は、歴史から姿を消している。また「濃姫」の墓所、墓石は特定されていない。
そのため歴史家は、父道三が存命中で生駒氏(吉乃)が嫡男信忠を生む以前に、1.殺された、2.病気で美濃へ返された、3.病死した、と推察する者もいるが、斎藤家の菩提寺に名はなく、斎藤家へ帰ったとは考えづらい。『信長公記』には入輿については記述があるが、その後については記述がない。また、その他の史書にも記載が見つかっていない。このため濃姫の最期については様々な推測がなされている。

生涯に関する諸説については下記参照
http://ja.wikipedia.org/wiki/濃姫



53:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 19:37:21.70 ID:nk80GgFl0


小早川秀秋→そんな無能でもない
斉藤龍興→いうほど暗愚でもない

55:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 19:41:11.42 ID:4Ky/URRx0


>>53
金吾が無能で無かったという根拠は?


57:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 19:44:35.26 ID:/DJ/DEIN0


>>55
朝鮮の役での活躍 岡山領民から慕われる
秀吉の英才教育




59:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 19:54:15.29 ID:CsKsh59/0


謙信ってなんで義の人とか呼ばれてるの?
あいつヒマになると関東の村々襲撃して人攫ってうっぱらってたゲスなのに

84:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 20:21:19.33 ID:LO10MhxnO


>>59
歴史なんか興味無い奴が大半だし
そいつらにとったら敵に塩が軍資金集めの商売なんて知らんし




73:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 20:15:56.54 ID:SWlqpPVO0


伊達正宗がなんで他の有名武将なみに評価されてるのかさっぱりわからん、ただの無能DQNじゃん
あと10年早く生まれてたっら天下獲ってたみたいな事言われてるけど生まれてたら伊達家速攻で潰れてるだろ

75:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 20:17:47.77 ID:nk80GgFl0


>>73
10年早く生まれても蘆名家全盛相馬家があれですしおすし


77:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 20:18:12.47 ID:CsKsh59/0


>>73
最上のおっちゃんに勝てないのにそれより西の猛者共に勝てるわけないわな


102:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 20:33:12.52 ID:HzqTYWq+0


>>73
世渡りは上手かったとおもう
曽祖父と祖父が上杉の跡継ぎで喧嘩して奥州巻き込んだ大乱やってるから
DQNは血筋だろう




74:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 20:16:02.67 ID:PzRxVo9Pi


大友家の重臣で幾多の戦場で活躍し
全盛期の大友家を支えた智勇兼備の将で
主君・義鎮からも信頼されていた名将なのに
息子のインパクトが強過ぎて影に隠れがちな人

吉弘鑑理



79:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 20:18:26.28 ID:IWQOztPP0


本多忠勝は猛将とかでなく臆病で用心深かったから生涯で傷を負わなかった
家康と戦地へ向かってる途中ウンコ踏んでよく見ると新しいウンコだったから
近くに伏兵がいると察して危機を脱した逸話がある

90:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 20:24:02.32 ID:PzRxVo9Pi


>>79
忠勝より直政や康政の方が怖かっただろうな
俺のイメージでは忠勝は慎重派
康政が無双武将って感じだ


100:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 20:31:48.93 ID:4Ky/URRx0


>>79
忠勝は姉川の戦いでは最前線に突っ込んでるし
秀吉の三河中入のときも少数で妨害しまくってるよ
今橋城?当たりの戦いで東三河の豪傑と一騎打ちもやった




82:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 20:20:49.33 ID:bbEXgYA40


長曾我部が美男子という風潮
姫若子は「女が腐ったような奴」という意味だから
ガリガリの根暗っぽかったと思うんだが



103:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 20:34:12.59 ID:PsT2NX2M0


今川義元は間違いすぎだろ

104:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 20:34:47.28 ID:nk80GgFl0


>>103
実際後年は馬に乗れなかったらしいですし





108:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 20:39:50.59 ID:HzqTYWq+0


大友家の兄弟喧嘩は様式美だな

110:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 20:43:27.73 ID:nk80GgFl0


>>108
二階崩れとかいう秀逸すぐるネーミングセンス


111:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 20:43:36.40 ID:IWQOztPP0


>>108
弟と花瓶どっち取るで花瓶取った宗麟wwwwwwwwwww


二階崩れ
戦国時代の1550年(天文19年)2月に勃発した豊後の戦国大名・大友氏の内紛、お家騒動。義鑑父子の襲撃が大友館の二階で行われた事に由来する。

大友氏第20代当主・大友義鑑は、正室の子である義鎮を嫡男と決定していたが、側室の子である三男の塩市丸を後継者としたいと考え、義鎮を廃嫡しようとしていたとされる。このため、大友氏内部では義鎮派と塩市丸派に分裂し、互いが勢力争いを繰り広げていた。
義鑑や塩市丸の生母は、塩市丸の後継を実現するために寵臣の入田親誠と共謀して、小佐井大和守(鎮直?)、斎藤長実(鎮実の父)ら義鎮派の主要人物を次々と誅殺していった。1550年(天文19年)2月、津久見美作(実名不明)、田口鑑親(あきちか、通称:田口新蔵人、田口蔵人佐(くらんどのすけ))ら義鎮派の一部が、大友館の2階で就寝していた義鑑と塩市丸、そしてその生母を襲撃した。この襲撃によって塩市丸とその生母、義鑑らの娘2人らが死亡した。津久見・田口の両名はその場で斬られたが、義鑑も数日後に受けた傷がもとで、領国経営に関する置文を残して死去。義鑑の死後、大友氏の家督は戸次鑑連ら家臣に擁立された義鎮が継承した。
塩市丸派の入田親誠は肥後の阿蘇惟豊を頼って逃亡するが、事件後に阿蘇氏によって討たれた。事件後に義鎮は襲撃実行者を処罰したが、1553年(天文22年)には服部右京亮らの家臣が義鎮を暗殺しようとする計画が発覚しているなど、家中は不安定な状況が続いた。 義鑑の義鎮廃嫡については、義鎮の生母は公家の坊城家の娘、あるいは大内義興の娘とも言われ、家中からの大内氏の勢力排除のために計画された事であるとも考えられている。二階崩れの変は、一般的には追いつめられた義鎮派の一部による暴走であると考えられているが、義鎮が影で動いていたとも言われている。



112:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 20:45:44.32 ID:xKEF8+4Z0


今川義元・氏真親子は世間一般に浸透してるイメージが酷すぎる

まず義元は下克上で成り上がった人だって知ってる人はほとんどいないと思う

氏真もノホホンとしたイメージ持たれてるが、裏切った武田にはガチギレしてて
今川が滅んだ後も北条上杉徳川に働きかけつつ駿河で部下を決起させて武田潰ししてるし



114:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 20:47:46.53 ID:PzRxVo9Pi


戸次鑑連の話しはどこまで本当何だろうな
雷斬ったってのは創作だろうが
落雷受けて半身不随ってのは本当だったのかな

115:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 20:52:10.98 ID:pxfUgJOu0


>>114
実際に雷を切ったっかってのは分からないが、その刀「雷切」は現存する
半身不随だったのは本当ぽい


立花道雪・雷切
道雪は『大友興廃記』などによれば若い頃に落雷を受けて半身不随になり、以後輿の上で指揮をとっていたとされる。また、落雷を受けた際に雷の中にいた雷神を斬っており、この時に雷神を斬った刀「千鳥」を「雷切」と改名し、傍らに置いていたとされる。またこの逸話から、「鬼道雪」「雷神」と呼ばれ畏怖されていたともされる。
しかし、秋月氏との合戦では「自ら太刀を振るい、武者7人を斬り倒した」という記録もあり、この年代の資料にも輿に乗っていたという記述は無い為、「若い頃に落雷によって下半身不随になった」というのは創作ではないかとも言われ、真偽はわかっていない。



116:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 20:54:42.77 ID:6HuCFfG60


何故か宗麟ってダメな君主ってイメージ強いよね

119:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 20:56:46.46 ID:PzRxVo9Pi


>>116
キリスト教に溺れてから変になってたからな
耳川の前に家臣の提言を聞いていればなぁ


122:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 21:00:30.44 ID:xKEF8+4Z0


>>116
宗麟は語る人の信仰次第で全然違う評価がなされるな

俺は宗麟はダメというか、それ以前に好きになれない
息子のダメっぷりも含めて




130:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 21:04:54.63 ID:6HuCFfG60


でも宗麟って外交で元就を九州から撃退してなかったか
頭はおかしいけど賢い人だったのでは

132:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 21:06:58.77 ID:HzqTYWq+0


>>130
大内義隆の従兄弟を山口に送って乱起こしたけど
元就撤退したら
速攻ポイーしたけどな


134:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 21:10:53.63 ID:PzRxVo9Pi


>>130
義鎮は基本筑前地区
取り分け貿易港であった博多を巡って
毛利家と争ってる
高橋や秋月の蜂起も元就の策略だしな




136:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 21:12:07.23 ID:qVgr529M0


なにのせいでこんなことになったんだろうな

137:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/11/06(水) 21:14:40.06 ID:xKEF8+4Z0


>>136
有名どころはみんな江戸時代初期の頃から既に変なキャラ付けされまくってる
真田信繁がいい例




10000:以下、名無しにかわりましてまとめでぃあがお送りします:2045/12/21(木) 02:51:41.36 ID:matomedia

スーパーの唐揚げはヤバいらしい レモン汁とか言ってる場合じゃない

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スーパーでオードリーの春日に遭遇したから、握手求めた結果wwwwwww

【悲報】ごくせんの生徒役、一人除いて全員死亡

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この記事へのコメント

37479:名無し@まとめでぃあ2013年11月07日 13:21:57

戦国系の信長って大体信長の野望系のキャラだよな

37482:名無し@まとめでぃあ2013年11月07日 14:02:38

CIA
GHQ
日本人の欧米に対する欲望

37483:名無し@まとめでぃあ2013年11月07日 14:13:42

戦国バサラの武将は正しいイメージだよね
光秀とか大谷とか

37484:名無し@まとめでぃあ2013年11月07日 14:16:05

実際の出来事を全て言葉で記述することはできないから歴史を語るに
あたって何らかの物語性は不可欠である。
だが実証性を無視するならば各自がお気に入りの妄想を主張し
押し付けあうだけになってしまう。
実証性が必要なのは自然科学だけではない。

37487:名無し@まとめでぃあ2013年11月07日 14:41:12

近代の研究で歴史かえんなとかなかなかいい具合にイカれてんな

37508:ゆとりある名無し2013年11月07日 16:24:24

ジャンプで花の慶次が連載されるまで前田慶次なんて誰も知らなかった。
一部の歴史に詳しい人を除いて。

37586:名無し@まとめでぃあ2013年11月07日 21:51:00

宗麟が外交上手の声があるが実のところ大友の真の屋台骨である吉岡長増のお陰である。
この人が事実上毛利の九州進行を失敗に終わらせたり島津との外交ポスト役だったりした
道雪曰く「吉岡宗歓、臼杵鑑速の死後、大友の政治は無道でしかない」

37660:名無し@まとめでぃあ2013年11月08日 00:40:46

慶次は生年も不明だし具体的に何をやった人なのかもよくわかってない
利家より年上だったって説もある

50653:名無し@まとめでぃあ2013年12月31日 15:41:19

こういうので自分の一族の先祖の話が出てるのを見ると嬉しいよね

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