戦国武将って間違ったイメージもたれてる奴多いよな

1:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/12/26(水) 00:27:14.16 ID:k2TDbArR0
福島正則→本当は頭もいいのに戦馬鹿なイメージ 石田三成→槍働きもかなりしてるのに文弱なイメージ 武田信玄→本当はたいしたことない 上杉の人たち→義なんてない 小早川秀秋→朝鮮で明軍を叩き潰したのにひ弱な雑魚 伊達政宗→マザコン
http://hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1356449234/
福島正則→本当は頭もいいのに戦馬鹿なイメージ
石田三成→槍働きもかなりしてるのに文弱なイメージ
武田信玄→本当はたいしたことない
上杉の人たち→義なんてない
小早川秀秋→朝鮮で明軍を叩き潰したのにひ弱な雑魚
伊達政宗→マザコン
だいたい江戸時代にできたイメージ
家康って豊国神社参拝しまくってんだよね
京都市東山区に鎮座する神社。豊臣秀吉を祀っている。
秀吉が亡くなった翌年に創建され、後陽成天皇から「豊国大明神」の神号を賜った。
大阪夏の陣にて豊臣家が滅ぶと、家康はこの神号を停止する沙汰を出した。
その後の逸話としては
家康は人が参拝できない状態にした。
また、豊国神社の麓の妙法院に移されて、家康が存命のうちは定期的に弔うことを命じた、など諸説ある。
その後、1868年に明治天皇が大阪に行幸したとき、秀吉を、天下を統一しながら幕府は作らなかった尊皇の功臣であるとして、豊国神社の再興を布告した。
小早川秀秋ってそんなに強かったのか
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安土桃山時代の大名。丹波亀山城主、筑前名島城主を経て備前岡山藩主。
関ヶ原の戦い以後、秀詮(読みは同じ)と改名する。
元服後、義理の叔父である羽柴秀吉の養子になり羽柴秀俊と名乗る。 しかし、その後豊臣秀頼により突然秀吉の命により小早川隆景と養子縁組させられ小早川秀秋となる。 慶長が初陣とされており、明の大軍に包囲された蔚山倭城の救援に向かい、秀秋は自ら馬に乗り退却する明・朝鮮連合軍を激しく追撃し、数多くの敵兵を討ち取るなど武功を上げたとされている。
しかし、釜山方面の守備を任されていたにも関わらず、勝手に蔚山倭城の加藤清正軍の救援へ向かった事や、敵軍に討ち取られる危険があったにも関わらず、大将である秀秋自ら先頭に立って敵将を追撃した事が「軽率な行動」であると批判される結果も生む事となった。
また関ヶ原の戦いでは当初西軍であったが東軍に寝返ることとなる。
この行動が関が原の勝敗を決めたといわれている。
秀秋は優柔不断かつ暗愚な武将として現代に至るまで評価されることが多い。
こうした評価は秀秋の生前から存在しており、人柄が軽薄であり、兄達に著しく劣る人物であるという酷評すら存在する。
また、家臣から度々の諫言を受けると逆上して手討ちにしたり、実際に秀秋の暗愚を見放して小早川家を去った重臣もいたという記録も残っている。
一方で、初陣である慶長の役の蔚山城の戦いでは、秀秋は自ら馬に乗り退却する明・朝鮮連合軍を激しく追撃し、敵兵を多数討ち取る武功を立てるなど非常に勇猛果敢であった事や、岡山藩主となってからは家老の補佐があったとはいえ無難な統治手腕を発揮している。
民達からも慕われていたらしく、全くの無能ではなかったのではないかとも言われている。
少なくとも、秀秋の判断・行動により関ヶ原の戦いの勝敗が決まった事実があり、当時秀秋が非常に有力な武将であった事は間違い無いようである。
いずれにせよ、秀秋に対する実証的な研究はまだ過渡期であり、今後一層の成果が期待されている。
wikiepdia
小早川秀秋
関ヶ原は金吾の裏切りのせいで東軍勝ったとかいう奴おおいけど
金吾が裏切ったというよりそもそも西軍としてのまとまりが皆無
長宗我部とかほとんど強制的に西にとりこまれてるだけだし
今川義元→貴族趣味の色白ピザ
今川義元と北条氏政は子孫に怒られてもおかしくないレベル
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戦国時代の武将、駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主。婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。
人物・逸話
幼いころから仏門に入っていたため、武芸を鍛えられず、個人の武勇には優れなかったといわれている。しかし桶狭間の戦いでは信長の家臣・服部春安が真っ先に斬りつけようとした時、自ら抜刀して春安の膝を斬りつけて撃退、さらに毛利良勝が斬りつけようとした時にも数合ほどやり合った末に首を掻こうとした毛利の指を食い千切って絶命したと伝えられており、必ずしも個人的武勇がなかったわけではない。
公家文化に精通し、都を逃れた公家達を保護、さらには自らも公家のようにお歯黒をつけ、置眉、薄化粧をしていたことから、貴族趣味に溺れた人物とされることもある。しかし公家のような化粧をした話は後世の創作であるという説もある。また、たとえ事実であったとしてもそれは家格の高さを示すことこそあれ、軟弱さの象徴とは言い難い。武士が戦場に向かう際に化粧をしていくことは、珍しくないばかりかたしなみの一つであったと言う説すらある。
父・氏親が三条西実隆に和歌の添削指導を受けていたように、義元は駿府に流寓していた冷泉為和に直接指導を受けていた。歌会は、毎月13日、のち11日に行うのが定例になっており、このように月次会を定期的に行うのは全国的に見ても珍しい。ただ、義元は連歌は好まなかったようで、連歌会の記録はほとんど残っていない。今川家中の和歌のレベルは実際はあまり高くなかったらしく、そもそも歌合の題目をよく理解していない作品が多く、また、同工異曲の似たような歌が頻出する。義元自身も例外でなく、為和から厳しく指導された記録が残っている。
『信長公記』では義元の桶狭間の戦いの際の出で立ちを「胸白の鎧に金にて八龍を打ちたる五枚兜を被り、赤地の錦の陣羽織を着し、今川家重代の二尺八寸松倉郷の太刀に、壱尺八寸の大左文字の脇差を帯し、青の馬の五寸計(馬高五尺五寸の青毛の馬)なるの金覆輪の鞍置き、紅の鞦かけて乗られける……。」と伝えている。
wikiepdia
今川義元
義元は八割ゲームの影響だろ
無双もBASARAも酷すぎる
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義元は政治面に長けてたイメージだな
寄親寄子と分国法
寄親寄子
中世日本において親子に擬制して結ばれた主従関係あるいはこれに准ずる保護者・被保護者の関係。
保護する側を寄親(よりおや、指南・奏者)、保護される側を寄子(よりこ、寄騎(与力)・同心)とも呼ぶ。
『日葡辞書』では寄親は「ある主君の家中とか、その他の所とかにおいて、ある者が頼り、よりすがる相手の人」、寄子は「他人を頼り、その庇護のもとにある者。あるいは他の配下にある者」と解説されている。
寄親・寄子制を採ったことが知られる戦国大名としては、北条氏・今川氏・武田氏・六角氏・毛利氏などが知られ、これよりも結びつきが低い(恩給は与えず、有事の時に指揮・被指揮の関係に入る)「指南・被指南」制度を採った伊達氏や結城氏の例もある。
今川仮名目録
分国法は戦国時代に戦国大名が領国内を統治するために制定した基本的な法令。
分国とは中世における一国単位の知行権を指す語であり、知行国に始まる概念であるが、室町時代中期以降に守護大名や国人一揆による一国単位の領国化が進み、分国支配が形成されていった。そうした分国支配の一環として、領国内の武士・領民を規制するために分国法が定められた。
今川氏が制定した分国法に今川仮名目録がある。東国では最古の分国法といわれている。
大永6年(1526年)4月に今川氏親が33条からなる家法である『仮名目録』を制定し、その後天文22年2月に今川義元が『仮名目録追加21条』を制定して補訂する。
wikiepdia
寄親・寄子
今川仮名目録
今川義元→麻呂
実は俺もよく知らない
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氏政のディスられっぷりは可哀想
完全にヒッキーのイメージ
氏康と早雲が凄すぎたからなのか
かといって弁護できる功績は思い当たらないけど
戦国時代の相模国の武将・大名。後北条氏の第4代当主。武田信玄の娘婿で、武田義信や武田勝頼とは義兄弟にあたる。 逸話
北条氏政の逸話は、一般に知られているものの多くは否定的な印象を与えるもので、後世の創作も多い。
汁かけ飯の話
食事の際に氏政が汁を一度、飯にかけたが、汁が少なかったのでもう一度汁をかけ足した。これを見た父の氏康が「毎日食事をしておきながら、飯にかける汁の量も量れんとは。北条家もわしの代で終わりか」と嘆息したという逸話である(汁かけ飯の量も量れぬ者に、領国や家臣を推し量ることなど出来る訳がない、の意)。氏政が結果的に北条家の滅亡を回避できなかったことが、この逸話を有名なものにし、氏政の評価を一般的に低いものにしている。この逸話は後世の創作で、同様の内容は毛利氏の元就と輝元の間の話としても伝えられている。
麦の話
『甲陽軍鑑』に記載されている話として農民が麦刈りをする様子を氏政が見て、「あの取れたての麦で昼飯にしよう」と言ったという話である。勿論刈った麦がそのまますぐ食べられる訳でなく、干し、脱穀し、精白するなどして、ようやく調理できるようになる。その話を伝え聞いた武田信玄はその無知ぶりを大いに笑ったというが実証はなされていない。
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北条氏政
義元は江戸時代の錦絵とか見てるとけっこう人気あったように思えるな
氏政は北条氏最大版図築いただろ
氏真は?
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なかなかに世にも人をも恨むまじ 時にあわぬをを身の咎にして
もう世の中をも人をも恨んではいない。時代にあっていなかったということが、この身の罪であったのだ。
悔しとも うら山し共思はねど 我世にかはる世の姿かな
(地位や名誉を失った)悔しいとも羨ましいとも思わない。今はただ自分の望んだ平和な世を過ごせることに満足している。
一番誤解されてるのは信長な気がする
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秀頼さえ生まれなければ豊臣政権はもっと長く続いたはずだよな
秀次 秀秋も優秀だったし
晩年の秀吉はクソ
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二階堂さんはむしろ感謝するべき
武田勝頼も無能扱いが多いけど個人の戦闘力はかなり高く敵陣突っ込みがちだから親父を冷や冷やさせてたんでしょ
まあ柴田みたいな脳筋キャラか
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信玄とか信長は江戸時代に家康公がかなわなかったって理由でかなり持ち上げられてるんじゃないかな
信玄領民にかなり嫌われてたみたいだし勝頼はとばっちり受けてるような
あと勝頼さんは柵に突撃繰り返してたとかそんなことはないらしい
そもそも貴族趣味=軟弱って考え方がおかしい
朝廷と寺社も「時代遅れの遺物」扱いされがちだけど依然強大な発言力があったわけで
氏真は朝倉みたいに文人としては優秀だけど戦は最低レベルみたいなモノか
勝頼と氏真は過小評価が一周して過大評価
政宗と信繁は過大評価が一周して過小評価
2chの話ね
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氏真さんは剣術とかもやってたりしてなかなか多彩だよね
戦国の東北はカオスすぎてヤバい
相馬、佐竹、田村、二階堂、大崎、最上とかみんなほとんど伊達の親戚
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山内一豊→なんでもそれなりにこなすイメージだが本当は武に偏りまくり
幸村より毛利勝永さんの方が凄いよね…
どーしてこーなった…
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。豊臣氏の家臣。
逸話
大坂の戦いが近いと伝え聞いた毛利勝永は、ある日妻子に向かって「自分は豊臣家に多大な恩を受けており、秀頼公のために一命を捧げたい。しかし自分が大坂に味方すれば、残ったお前たちに難儀がかかるだろう」と嘆息し涙を流した。これを聞いた妻は「君の御為の働き、家の名誉です。残る者が心配ならば、わたくしたちはこの島の波に沈み一命を絶ちましょう」といって勝永を励ました。勝永は喜んで一計を案じ、子・勝家とともに大坂城へ馳せ参じた。のちにこれを聞いた家康は「勇士の志、殊勝である。妻子を罪に問うてはならぬ」と命じ、勝永の妻と次男の太郎兵衛は城内へ招かれ保護されたという。『兵家茶話』『常山紀談』
道明寺の戦いでは濃霧のため、真田信繁、毛利勝永らの後詰が間に合わず、後藤基次ら名のある武将が討死した。遅れて合流した真田信繁は勝永に向かって「濃霧のために味方を救えず、みすみす又兵衛(後藤基次)らを死なせてしまったことを、自分は恥ずかしく思う。遂に豊臣家の御運も尽きたかもしれない」と嘆き、この場での討死を覚悟した。これを聞いた勝永は「ここで死んでも益はない。願わくば右府(豊臣秀頼)様の馬前で華々しく死のうではないか」と慰めたという。『大坂陣聞書』
毛利勝永は天王寺口の決戦で多大な活躍を見せたが、これを望見していた黒田長政は僚友の加藤嘉明に「あの際立った采配は誰だろう」と尋ねた。嘉明は「貴殿はご存じなかったのか。彼こそ毛利壱岐守が一子、豊前守勝永でござる」と答えた。それを聞いた長政は「この前まで子供のように思っていたのに…さても歴戦の武将のようだ」と驚き、賞賛したという。『武家事紀』
当時、大坂城の戦いを見聞した宣教師は「豊臣軍には真田信繁と毛利勝永という指揮官がおり、凄まじい気迫と勇気を揮い、数度に渡って猛攻を加えたので、敵軍の大将・徳川家康は色を失い、日本の風習に従って切腹をしようとした」と以上のように報告したという。※真田・毛利の奮闘による節は『山本豊久私記』の記述にも見える。
江戸時代中期の文人・神沢杜口(かんざわ とこう)は、自身の著した随筆集『翁草』のなかで毛利勝永の活躍を賞賛し「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」と記している。
大坂の陣の後、土佐山内家では勝永の旧臣・杉助左衛門に命じて勝永のことをまとめさせた。これは『毛利豊前守殿一巻』として長く山内家に伝来し、大正末年に福本日南がこれを見て『大坂城の七将星』を書いている。現在巷間に流布している勝永の生年などは『毛利豊前守殿一巻』に基づいたものである。
wikiepdia
毛利勝永
前田慶次とかいうヤンキー↑
真田幸村→そんな名前じゃない
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直江兼次が義と愛の人が一番やばいと思う
人斬りまくりし米盗むし騙すし人馬鹿にするし
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。上杉氏の家老。
逸話
江戸時代後期の講談や明治時代以降の講釈本などを中心に、兼続は謙信に才気と美貌を見出され、小姓・近習として近侍し、その寵愛深い衆道の相手かつ信頼の篤い近臣であったといわれている。しかし実際には、生前の謙信と兼続の関わりを示す信憑性のある史料は一切確認されておらず、青少年期の兼続が謙信に近侍していたか否かは不明である。
米沢への転封の際に、上杉家は大変な財政難に陥ったが、兼続は「人こそ組織の財産なり。みんな来たい者はついてこい」といい、召し放ちなどの現代で言うリストラをしなかった。米沢はかつての領国の4分の1の石高の地で、上杉家を待っていたのは厳しい暮らしであった。しかし、兼続はここで家臣と家族3万人を養おうと、自らは質素な暮らしをしながら、国造りに取り組む。米沢市の郊外には、兼続の指示で土地を開いた武士の子孫が今も暮しており、その家の周りには栗や柿そして生垣にはウコギが植えられている。いずれも食べられる食用の木である。兼続は実用的な植物を植えさせることで、人々の暮らしの助けになるよう心を配っていた。
関ヶ原の合戦後、非常時に備え米沢の墓石を格子型にするよう命令した。これは兼続の発案と伝えられ、墓石の格子に棒を通し並べることで強固な石塀とするものである。今でも米沢の寺社の墓所にはたくさん格子型の墓石が並んでいる。また兼続の墓石も同様である。
妻・お船の方との夫婦仲は大変よく、兼続は生涯側室を一人も持たなかった。
伊達政宗とは不仲だったという。
豊臣政権下の頃、あるとき政宗が同席していた諸大名に天正大判を回覧すると、兼続だけがそれを素手ではなく扇子で受け撥ねるようにして表裏を見た。政宗が兼続に「遠慮をすることはない」と直接手に触れて見るように勧めたところ、兼続は「私の右手は戦場にあっては先代・上杉謙信の代よりの采配を預かるもの。不浄なものを触れるわけには参りません」と、政宗の下へ投げ返した。
徳川政権下の頃、あるとき直江兼続は江戸城の廊下で伊達政宗とすれ違うも、会釈すらせず素知らぬ顔で素通りした。政宗がこれを咎めると、直江兼続は「政宗公とは戦場では幾度もお目にかかっておりましたが、いつも(負けて逃げる)後ろ姿しか拝見したことが無かったため、一向に気がつきませんでした」と返答をした。
『最上記』によると、長谷堂城の戦いの撤退戦での直江兼続の采配振りを「古今無双の兵」と評している。
南化玄興、西笑承兌などと親交があり、文化人・蔵書家として有名であった。兼続は若い頃から漢文学に親しみ、自ら漢詩も詠んだほか、連歌もよくし、当代一流の文化人の連歌会に名を連ねている。江戸中期の儒学者新井白石は、「その詩才は疑うべくもない」と賞賛している。また古今東西の歴史書や医学書、仏教典籍を書写・蒐集している[9]。兼続蔵書である宋版『史記』『漢書』『後漢書』は、南化和尚から贈られた物であり、いずれも国宝に指定されている。また木活字による『文選』(直江版)の出版や、米沢藩の学問所である禅林文庫(後の興譲館、現在の山形県立米沢興譲館高等学校)を創立している。
兼続は朝鮮の役の際、肥前名護屋城に滞陣中のわずか2ヶ月間に300巻の医学書を書写させている。また渡海後は士卒に略奪を戒めるとともに、兵火にさらされた漢籍を救い出し、日本に持ち帰っている。また江戸初期の儒学者藤原惺窩は「近世、文を戦陣の間に好む者は、上杉謙信、小早川隆景、直江兼続、赤松広通のみ」と評している。
「愛」という字を前立にあしらった兜が兼続所用として米沢市の上杉神社稽照殿に伝わっている。これは、上杉謙信が、愛宕神社に、武田信玄および北条氏康の打倒を戦勝祈願した文書が歴代古案に集録されており、一般に、愛宕の愛からとする説が有力である。
江戸時代の随筆『煙霞綺談』によると、あるとき、兼続の家臣(三宝寺勝蔵)が下人(五助)を無礼討ちした。すると、その遺族たちが兼続に「あれの粗相は何も無礼討ちにされるほどのものではなかった」と訴え出た。兼続が調べてみると遺族の訴えの通りだったので、兼続は家臣に慰謝料を支払うように命じた。しかし遺族たちは下人を返せと言って譲らない。兼続は「死人は生き返らないのだから、慰謝料で納得してくれないか」と言ったが、遺族たちはあくまでも下人を返せと言い張る。すると兼続は「よしわかった。下人を返して取らそう。だが、あの世に遣いにやれる者がおらぬゆえ、すまぬがそのほうたちが行ってくれぬか」と言って遺族3人の首をはね、その首を河原に晒してその横に立て札を立て、そこに「この者どもを使いに出すから死人を返せ 慶長二年二月七日 直江山城守兼続判」と閻魔大王への嘆願書を書いたという。義や温情に厚い兼続ではあったが、当時の身分制度には忠実であり、かつ理不尽な申し立てをする者に対しては苛烈であった。しかしこれは、後世に創作された伝承であると思われる。
『常山紀談』によると「大男にて、百人にもすぐれたるもったいにて、学問詩歌の達者、才知武道兼ねたる兵なり。恐らく天下の御仕置にかかり候とも、あだむまじき仁体なり」とあり、それに続いて「長高く容儀骨柄並びなく、弁舌明に殊更大胆なる人なり」と兼続を高く評価している。それを受けた『名将言行録』では、「背が高く、容姿は美しく、言葉は晴朗」であったとされている。また『歴史サスペンス劇場』で紹介された際には、豊臣秀吉154cm、徳川家康157cm、織田信長169cmであるのに対し直江兼続は180cm以上であったとされ、当時の一般的な成人男性よりもはるかに長身であったとされている。
御館の乱では謙信の遺言を偽造しているとの説がある。謙信が病気に倒れたときに世話役を務めていた直江景綱の継室(未亡人)と共謀して遺言を偽造したことが『上杉年譜』に記されている。
wikiepdia
直江兼次
島津の養分伊藤→本当はかなり強い
体からビーム出したりな
(´;ω;`)戦国無双が悪い
幸村は幸隆→昌幸という名将の血筋と
真田丸での凄まじい戦果と家康の本陣に突入しまくって本陣を後退させ家康に死を覚悟させたのと
家康から50万石で誘われても断ったのと
細川忠興曰く「古今これなき大手柄」、島津家久曰く「真田日ノ本一の兵」の評価と
それに真田十勇士の創作が加わってんだからそりゃ人気でるわ。
幸村程度の活躍してる武将は沢山いるけど
大阪の陣という大舞台、さらに相手が戦国を生き抜いた天下一の弓取りと言われる天下人家康
評価されないほうがおかしい
ってゆーか、書いてて思ったんだけど普通に名将じゃねw
細川忠興→DQN ×
細川忠興→病人 ○
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戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。丹後国宮津城主を経て、豊前国小倉藩初代藩主。肥後細川家初代。
正室は明智光秀の娘・玉子(通称細川ガラシャ)。
足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父・幽斎と同じく、教養人・茶人としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道の流派三斎流の開祖である。
人物
大変な戦上手で、政治家としても優れていた。また戦国武将の中でも有数の冷徹さと気性の激しさを持っていた。
足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏と多くの主君に仕えながら細川氏を生き延びさせた政治手腕の反面、身内の者にも容赦を加えない苛烈な側面もあり、関ヶ原の合戦中、父の幽斎が居城を敵に明け渡した(詳細は田辺城の戦いの項を参照)ことから一時不和になっている。また、弟の興元とも不仲であった。
丹後攻略戦では、同じ足利一門である一色氏を騙し討ちにした末、敗残兵をみな殺しにするなど非常に残忍な手法も取った。
情報戦にも長けていたが、その背景には当代一流の文化人の一人として数多くの文化人や大名、公卿たちとの交流が盛んだったという事情があり、土井利勝や遠戚関係にあった春日局などを通して多くの情報を得ていたとされる。また隠居後も、忠利と交互に国許と江戸を行き来しており、忠利とは書状で頻繁に連絡を取っていた。ちなみに、忠興が生涯で書いた手紙の枚数は、関ヶ原の戦いの後だけでも約2,000通が確認されている。
父と同じ教養人でもあり、和歌や能楽、絵画にも通じた文化人であった。『細川三斎茶書』という著書を残している。
千利休に師事し、利休に最も気に入られていた弟子で、利休七哲の一人に数えられる。利休が切腹を命じられたとき、利休にゆかりのある諸大名の中で見舞いに行った者は、忠興と古田織部だけであったとされる。
正室の玉への愛情は深く、その父・明智光秀が本能寺の変を起こしたときも離縁せずに、幽閉して累の及ぶのを避けている。2人は当代第一の美男美女夫婦といわれたが、玉が秀吉の禁教令発布直後にキリシタンになったとき、これに激怒して侍女の鼻をそぎ、さらに玉を脅迫して改宗を迫ったと言われている(この頃から夫婦仲が冷めた可能性もある)。さらに、玉の美しさに見とれた植木職人を手討ちにしたという話もある。朝鮮出兵中、忠興は玉に何通もの手紙を書いているが、その内容は「秀吉の誘惑に乗らないように」というものだったという。
右の額に投石で受けた傷、鼻に刃物で切り裂かれた傷があった。妹婿の一色義有を暗殺した後、一色残党から救い出した忠興の妹であり義有の妻である伊也に対面の席にて懐剣で襲われる。首に突き付けられた刀を間一髪のところでかわすが鼻を真一文字に切り裂かれる。額の傷は初陣の城攻めで一番乗りを果たして信長より感状をもらっており自慢にしていた。しかし、伊也の恨みのこもった鼻の傷が残って以降、大名の間では忠興の前で顔の傷のことを話題にするのはタブーとなった。
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細川忠興
義景は時期と場所が悪かったな
朝倉家はもともとの基盤が脆弱(英林条々の有名な一乗谷に家臣集めるなんてのは義景の代になっても完全には行われてなかった)だったし、一向一揆との睨み合いで動けなかった。
でも朝倉五代の中では一番積極的に軍事行動も起こしてるし、まだまだ過小評価だと思う
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戦国時代の武将。越前国の戦国大名。越前朝倉氏第11代(最後)の当主。
人物
義景は現在においても暗愚な武将として評価されることが多い。その理由としては多数ある。
足利義昭が亡命してきたときに上洛すれば天下を取れる絶好の機会であったのに、それをみすみす逃がした。
浅井長政の離反で信長は前に朝倉軍、背後に浅井軍という絶体絶命の窮地に陥ったが、信長や有力武将の多くを取り逃がした上に近江に出兵したのが5月11日であり、しかも大将は朝倉景鏡で義景は自ら出陣しないという鈍重な行軍を行なった。
志賀の陣で信長が四方に敵を構えて窮地にあった時、信長の挑戦があったにも関わらず無視して応じなかった。また先鋒隊が京都付近まで迫っていたのに、自らは山科に留まって信長帰洛と和睦の機会を与えた。勅命講和に関しても信長に浅井領を除く近江の領地を承認するというものであり、実質的には信長優位の講和であった。
義景は子宝に恵まれず、他に兄弟もいなかったため、外交などの立場は非常に弱く朝倉家滅亡の一因を成した。
義景前半の治世では宗滴という信頼できる名将が存在し、その死後も深刻な政治情勢に巻き込まれることが無かったため越前は周辺諸国に比べて安定・平和・栄華を極めた。このため当時の越前を訪れた者は「義景の殿は聖人君子の道を行ない、国もよく治まっている。羨ましい限りである」と讃えている。また公家の三条西公条なども越前を羨んだという。
義景は各地の大名へかなり多くの書状を発給しており、足利将軍家、美濃の遠藤氏、越後上杉氏、遠方では薩摩の島津氏、出羽の大宝寺氏、安東氏、常陸の土岐治英など、かなり広範囲にわたって外交を行っている形跡が見られる。また、武田信玄に仕え、諸国使番として各地を巡り、信玄上洛作戦の際にも朝倉氏に使者として赴いた日向宗立から武田流戦術の秘伝を学んだと、前出の土岐治英に書簡を出しており、戦術についても決して伝統的なものに拘らずに新しい戦術を取り入れようとしていた人物である事が窺える。
朝倉氏代々の功績を受け継ぎ、一乗谷に京都から多数の文化人を招き、一大文化圏を築き上げている。
個人としても文芸に凝っていたようで、歌道・和歌・連歌・猿楽・作庭・絵画・茶道など多くの芸事を好んで行っていた記録が残る。特に茶道には凝っていたようで、一乗谷からは現在も多くの茶器(当時は高価な輸入品であった唐物茶碗や青磁花瓶、タイ製の壷など)が出土している。
天正9年(1581年)に越前に布教に赴いたルイス・フロイスは、越前のことを「日本において最も高貴で主要な国のひとつであり、五畿内よりも洗練された言語が完全な形で保たれていた」と記している。
小笠原流弓術の達者で、度々犬追物を行って弓術を披露している。
内政家としては中継貿易に頼っていた貿易を大陸との直接貿易路を開く事によって収益を上げ、また朝倉氏遺跡からガラス工房の跡が発掘された事などから、新しい産業の開発にも力を入れていたと思われる。
元亀元年(1570年)の信長との講和の際、信長は義景に対して「天下は朝倉殿(義景)持ち給え。我は二度と望みなし」という起請文を出したという(三河物語)。
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朝倉義景
九戸政実とか明らかにその辺でぶいぶい言わせてる奴らなんかより戦上手いよな
竹中半兵衛もかなり実像と通説が乖離してるよね
早死にしちゃったし、張良や諸葛亮の影響を受けて無私無欲な武将みたいな評価を受けてるけど、稲葉山占領(これは実質半年に渡ったクーデターだった)とか、織田に降伏した後ちゃっかり弟を送り込んだりとか限りかなりの野心家だったように見えるな
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戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
逸話
活躍は『武功夜話』や、江戸時代の軍記物である『太閤記』、子の重門が江戸時代に記した『豊鑑』などによって描かれている。江戸時代の講談などで、黒田孝高とともに天才軍師の人物像が固まり、現在の人気に至っている。しかしながら『信長公記』などに記されている記述は少なく実態はよく分かっていない。また、秀吉の正式な家臣であるという記述も一次史料には見当たらず織田家から秀吉に付けられた与力武将の一人であると見られている。
『太閤記』や『常山紀談』などによると、体が弱く見た目は痩身で女性のようであり(「その容貌、婦人の如し」と記録にはある)、出陣するときも静かに馬に乗っているだけだったという(こちらは漢の劉邦の謀臣・張良のイメージと重なる)。容貌が婦人のようであったことから、主君の龍興をはじめとする斎藤家臣団から侮られ、龍興の寵臣である斎藤飛騨守に櫓の上から嘲弄され、小便を顔にかけられたことがあった。数日後、飛騨守が龍興居室の宿直を務めていたとき、重治は稲葉山城に詰めていた弟・重矩の看病のためと称して武具を隠した数箱などをもって入城し、そして重矩の居室で武装して宿直部屋に居た飛騨守を惨殺して稲葉山城を乗っ取ったとされている。
長篠の戦いで、武田勢の一部が向かって左側に移動した。秀吉は回りこまれるのではないかと焦ったが、重治は織田勢の陣に穴を開けるための陽動ではないかと進言した。秀吉は重治に従わず迎撃のため兵を動かしたが、重治は反対した挙句手勢と共に持ち場を離れなかった。まもなく武田勢は元の位置に戻って秀吉が不在の地点に攻め寄せた。重治が守っている間に秀吉もあわてて帰還し、重治が正しかったことが証明された。中国攻めの陣中で病死する際には秀吉は京で養生するように戒めたが、重治は「陣中で死ぬこそ武士の本望」と断ったとされる(『竹中家譜』)。また最後の策として、三木城兵糧攻めを秀吉に授け、別所長治を降伏させている。この無血開城戦法は、後の備中高松城の水攻めにも通じている。
黒田孝高が秀吉が約束した知行の加増をいつまでたっても実行しないことに不満を覚え、秀吉の花押が入った書状を持って秀吉の前に現れて不満を述べたことがある。そのとき、秀吉の側にいた重治が書状を手に取り、破って燃やしてしまった。驚く孝高に対して、「こんな文書があるから不満を感じるのだ。それに貴殿の身のためにもならない」と述べたとされる。
重治が息子の左京(後の竹中重門)に軍物語について教えていると、左京が急に席を立ってしまった。重治が理由を聞くと、小用だという。これに重治は怒り、「たとえ小便を垂れ流そうとも、軍談の席を立ってはならない。竹中の子が軍談に聞き入って座敷を汚したと言われれば、竹中家の面目であろう」と言ったと伝えられる(『武辺咄聞書』)。
いつも貧相な馬を買っては、それに乗馬していた。秀吉が「貴殿の身分でその貧相な馬はなかろう」と言うと、「名馬を買うと、実際の戦闘のときにその名馬を惜しんで戦機を逃がすことになりますから、これがいいのです」と述べたとされる。
秀吉が重治の功績に報いるため、加増を約束した書状を渡そうとしたが、「このような物は不用です。もし私の子が自身の不覚悟を忘れ、父にはここまで殿は懇意にされていたのに、なぜ私にはと恨みに思うようなことがあっては災いとなります」と述べて破り捨てたという(『武功雑記』)。
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竹中重治
なんで真田幸村の話ばっかりなんだよ
真田昌幸も凄いだろ!
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。
人物
昌幸を「表裏比興の者」と評した文書がある。これは天正14年(1586年)の上杉景勝の上洛を秀吉が労う内容の文書で、同日付で豊臣家奉行の石田三成・増田長盛が景勝へ宛てている添書条に記されている。これは家康上洛に際して家康と敵対していた昌幸の扱いが問題となり、家康の真田攻めで景勝が昌幸を後援することを禁じた際の表現で「比興」は現在では「卑怯」の当て字で用いられる言葉だが「くわせもの」あるいは「老獪」といった意味で使われ、武将としては褒め言葉である。これは地方の小勢力に過ぎない昌幸が、周囲の大勢力間を渡り歩きながら勢力を拡大させていった手腕(知謀・策略)と場合によっては大勢力との衝突(徳川との上田合戦等)も辞さない手強さ(武勇)を合わせて評したものである。実際、昌幸を「比興の者」と評したと目される三成は、真田家と縁を結んでいる。
関ヶ原の折、西軍の挙兵に際して三成に「なぜ前もって知らせてくれなかったのか」と宛てた手紙が残されている。
江戸時代の享保16年(1731年)に成立した松代藩士・竹内軌定『真武内伝』などをはじめ、現在でも歴史小説などにおいて昌幸は謀将として評され描かれる傾向にある。『真武内伝』をはじめ江戸期に成立した戦記物に拠れば、徳川家康は大坂冬の陣において真田が大坂城に入城した知らせを受けると「親の方か?子の方か?」と訊ねたと言われる。これは「謀将」昌幸の病死を家康を始め当時の武将達が半ば疑っていたことを示唆している。また、その時家康の手はがたがた震えていたと伝えられ、家康がそれだけ昌幸に恐怖していたとされる(昌幸ではなく、当時は無名の信繁と知って安堵したとも)。
昌幸は九度山幽閉中に家康が近い将来豊臣氏を滅ぼすことを予期していたと言われ、その際には青野ヶ原(大垣市を中心とする西美濃一帯・関ヶ原とほぼ同地点)で徳川軍を迎撃する策などを画していたと言う。これらの伝承は昌幸が2度も徳川の大軍を寡兵をもって撃退したことを踏まえ、「大坂の陣に昌幸がいたら、豊臣と徳川の運命は大きく変わっていたかも」とする憶測が生んだものとされ今もなお同じように考える人は少なからず存在する。 昌幸の画像は晩年の姿が描かれた『真田昌幸画像』が知られる。これは高野山蓮華定院所蔵のものを原図とし、後に転写された作品が願行寺(上田市)や上田市立博物館など各地に所蔵されている。
逸話
徳川秀忠が西軍についた真田昌幸の篭る上田城に前進を阻まれていた時、秀忠は冠が岳にいる先陣の石川玄蕃、日根野徳太郎に連絡する必要に迫られ、島田兵四郎という者を伝令として出した。兵四郎は地理がよくわからなかったうえ、上田城を避けて迂回していたのでは時間がかかりすぎると思い、なんと上田城の大手門前に堂々と馬を走らせ、城の番兵に向かって「私は江戸中納言(=秀忠)の家来の島田兵四郎という者。君命を帯びて、我が先陣の冠が岳まで連絡にいくところです。急ぎますので、どうか城内を通してくだされ」と叫んだ。味方に連絡するために、現在交戦中の敵城を通してくれ、というのだから、とんでもない話である。番兵たちもあまりのことに仰天してしまい、真田昌幸に報告すると、「なんと肝っ玉の太い武士だろう。通してやらねばこちらの料簡の狭さになる。門を開けてやれ」と門を開けるように指示した。「かたじけない」と城内を駆け抜け裏門を抜ける際、島田兵四郎はちゃっかりと「帰りももう一度来ますので、また通してくだされ」と言った。その言葉通り、再び島田兵四郎が帰りに城に立ち寄った時、真田昌幸はいたく感服し、兵四郎に会い、「そなたは城内を通過したので、我が城内の様子を見ただろう。しかし様々な備えはあれど、それは城の本当の守りではない。真の守りは、城の大将の心の中にあるのだ。」と、自ら直々に案内して城内を詳しく見せてやり、その後門を開けて帰してやったという
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真田昌幸
結局秀吉はガチ農民なの?農民に毛が生えた下級武士出なの?
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- 戦国武将って間違ったイメージもたれてる奴多いよな
この記事へのコメント
一人で敵引き付けすぎ
親父昌幸の功が2割は入れていいだろ
本軍ではないにしろ二回徳川と戦って
一回目は撃退二回目は十分すぎる足止め
奇襲で運よく勝ったみたいなイメージだけど、実際は違うみたいだしな
「ごめんなさいもうしません。
天下布武とかDQNコピーで調子こいててごめんなさい。
もう二度とそんなこと言いません。
天下はオレみたいなクズじゃなく、
朝倉さまが運営したらいいと思います!ごめんなさいごめんなさい」
と言わせた鬼畜義景。
水戸黄門の悪代官レベルの小悪党扱い
吉良の殿様良いお殿様ってポスター貼ってあった
税率が天領ぐらいだったのかもしれないけど
あと信長時代の歴史小説で
その小説の主人公はお市と恋愛し過ぎw
信玄は多額の借金とか残してんじゃねーよ
あと昌幸父ちゃんは三代に入れてる分ましだから信之兄ちゃんをもっと・・・
あいつらアレで他スレに殴りこんでどや顔してるからすげぇ。
「幸村?信繁だろwwwしかも大坂でちょっと働いただけの小物だし」
「ていうか孔明って内政だけで戦争は全然だめだよね」
この辺は三戦好きが一度は通る道
あそこはもう女しかおらんだろ、
あのスレのノリの気持ち悪さは女特有の気持ち悪さだし
秀頼誕生のせいで秀吉も自分の血筋を残せる希望を見ちゃったんだろうな。
秀吉好きだからこそ思うんだが、豊臣家が秀吉と高台院のもので終わったのもはかなくていいんじゃあないか・・・。
でも全然歴史に興味なかったのに名前だけで一発で顔が思い浮かんだりと、歴史のテストには約にたったよ。
あ、呂布だ!赤斗うめぇ!
とか変な持ち上げられ方してるからそれに対するカウンターがあるだけだな
信長は、身内には甘かった。謀反起こされかけて謀殺した弟の息子優遇してるし。もっとも、甘かったというより、甘くせざるを得なかったのではないかと思うけど。尾張統一の時にかなり滅ぼしちゃってるし。最後に頼りになるのは、何だかんだでやっぱり身内だろうからなぁ。
後、氏真は卜伝から指導を受けたってのは、結構真偽が不確かだけど、少なくとも若い時は見た目とか雰囲気とか風格があって、決して弱い馬鹿殿って感じじゃなかったみたいだね
それと、蹴鞠もなんか有名な人に指導されたらしいって伝わってるのと、信長との逸話だけで、一番力を入れてたのは和歌らしいね。平均するとそこそこの和歌ばっかり詠んでるけど、多作でたまに良いのを詠むとか言われてた
あとは、最上さんか・・・
この人も勘違いしてるけど柴田勝家って武力だけでなく政治にも長けてたよ
文献から善政を敷いてることも分かってたし
自由に考察すればいい
当時の状況や常識はできるだけ知っておかないと的外れになるけど
>>1がドラえもんやのび太君なら謝る
そもそも史実とされているもの自体が単なる説だからな
本当のことなどどうせほとんどわかっていない
残されている書状や書物の内容だって正しい事が書かれているかわからん
嘘、捏造なんぞいくらでもできるしされているからな
まあそこまで疑ったらキリがないので、研究材料として有力扱いされているがね
下野の宇都宮成綱や多功綱継、結城の結城政朝、水谷政村、多賀谷重経、常陸の佐竹義舜辺りはもっと評価されて良い
あんな連中が我々の先祖だと思えるかwつか、末裔に失礼だろういくらなんでも
パクりBが悪い。検索した時にパクりBが悪い。の部分を出るようにして検索で上の方に出るようにして色つけて色付きで字太字にして強調して言って書いて説明して解説して紹介して書き込んでレスコメント投稿して編集してまとめて記事にして記事作って出して載せていい。だな。だろ。その通りだな。
三国志演義では劉備や諸葛亮、戦国では正宗や信玄、幸村がその標的
そろそろ島津とかも入るだろうな
中二病とか関係ないし(笑)
見方次第でいろんな評価できますよってことにしとこうぜ。
僕は島津は好きですよ。
永禄2年(1559年)にすでに家督譲られてるし・・・その後の戦いは全部
親父じゃなく、氏政の手柄だ
今川義元も同情する・・・楽市楽座を始めたのは今川家だ
太源雪斎の教育を受けた義元がアフォであるはずが無い
同門の弟子に徳川家康がいる・・・
あえてそれを喧伝してた理由は、
秀吉が穢多非人だったからという説が面白い。
親指ふたつある奇形児だったり、
金鉱堀りが得意というか、むしろそれにしか興味がなかったり。
ただ逆のこと言いたいだけやんけ
7757:名無し@まとめでぃあ:2013年02月07日 13:16:23
んで自分で少し調べてあまりの違うキャラっぷりに絶望する
曹操は常にプライドを持った人だと思ってたのに…